東日本大震災から7年を迎えて

東日本大震災から7年を迎えました。
2011年3月11日、私は広島で働いていました。まさかその翌年の2012年から、今まで行ったこともない、そもそも地名を聞いたことすらない陸前高田市に関わることになり、まさかそれから6年もの間仕事をし続けることになるとは思っていませんでしたが、縁あってのことだと思います。復興事業は当初の計画に対してうまく進んでいないことが多いのですが、それでも6年も経つと、復興に向けた雰囲気が少しずつ感じられるようになっています。
今日は3月11日ということもあり、これまで6年間で私が見てきた陸前高田市の風景を紹介します。
2012年
2012年8月7日、私は初めて陸前高田市を訪れました。当時はまだ瓦礫が残っていました。
まだ切り倒される前の自立している奇跡の一本松。ただ、遠目から見ても枯れているのがわかりますね。
小友中学校。津波により全壊しました。今は高田東中学校に統合されています。
中心市街地の地元スーパーのマイヤ。こちらはすでに仮設店舗として浸水エリア外で再開されていました。この建物は、この後取り壊され、この付近は完全に更地になります。
ちょうどこの日は七夕祭りの日。瓦礫を避けたかつての中心部で山車を動かしてました。翌日、当時の市役所の課長補佐が、すごく嬉しそうに、「街に灯りが戻ったんですよ」と言っていたのが今でも忘れられません。
2013年
この年から本格的に陸前高田市の交通計画に関わり始めました。まずは2月にデマンド交通の運行開始。前年の12月から突貫で事務所を立ち上げ、人を雇って、システム作って、許認可申請して、とすごく忙しかったですが、無事軌道に乗り始めました。
その直後にBRTの運行開始。交通の幹線機能が構築されたことで、移動の軸が整いました。
その後専用道の整備なども進みました。
一本松は防腐処理が施され、モニュメント化されました。枝のつき方が違ったとかで工事やり直しなどもあったようですが・・・。こちら工事中の様子。
お隣の気仙沼、鹿折唐桑駅周辺の打ち上げられた漁船。こちらは震災遺構として残すという話もあったようですが、最終的に撤去されました。
当時は宿泊施設が少なかったのと、建設現場の飯場の整備が進んでいなかったこともあり、こちらの漫画喫茶で土木作業員のみなさんと雑魚寝していました。みんなお酒を持ち込んで毎晩酒盛り。ケンカもよく起こっていたなぁ・・・。大浴場には紋紋を背負われているおじさんも多数。
2014年
復興事業推進のためのベルトコンベアが整備されました。市内気仙町今泉地区の高台団地の造成の際に掘削される土砂を川向うまでベルトコンベアで運ぶんですが、その「ベルコン専用」の吊り橋です。名称は小学生からの公募で選ばれた「希望のかけ橋」。このベルコンのおかげで復興工事の工期が大幅に短縮したようです。
イオンが進出してきました。マイヤと一緒に市民の台所を支えられています。
2015年
この年頃から公共公益施設の再建が進みました。こちらがコミュニティホール。
ベルコンは撤去されました。復興のシンボルだったので少し寂しいですが、復興が進んだ印ですね。
2016年
生出地区の協働型交通実験のお手伝いもしました。
2017年
そしてかさ上げ市街地の拠点となるアバッセたかたの開業。いよいよまち開きです。
都市計画道路の整備も進みます。と同時に、道路に重なる家屋の撤去も進みます。
私の大好きな熊谷食堂さん。こちらも長らく仮設店舗で営業されてましたが、この年からかさ上げ市街地で再開です。
アバッセには図書館ができて、たくさんの人が集う場所が整備されました。
2018年
2018年は、市内総合病院である県立高田病院が高台で再建され、かさ上げ市街地に陸前高田駅が再建されます。少しずつまちが完成形に近づいていくのを見ることができることはとても嬉しいことです。復興が進むことで新たな課題が出てきますし、震災直後から、ひいては震災前から解決されず残っている課題も多々あるのですが、それでも少しずつ前進していくまちを、これからも微力ながら支えていければと考えています。
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