Aさんのこと

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ようやく色々と落ち着いてきたので広島での災害について少し.

今週末,広島の実家に帰ってきました.実家はメディア等で報道されている緑井・八木地区から川1本隔てた中州地域なので,実家のほうには被害がありませんでした.災害直後の情報をざっと聞く限り,友人知人にも特に被害はなかった・・・はずだったんですが,残念ながら,高校の時の友人を1名,亡くしてしまいました.土石流の被害が甚大な山裾のあたりに住んでいたらしく,お父さん・お母さんも含め,家族全員亡くなられたそうです.

亡くなったAさんは,高校は一緒だったんですが特にクラスが一緒なわけでもなく,3年生になるまで彼女の存在すら知らなかったんですが,高校3年生の時にちょっとだけ通った塾で偶然知りあい,話をするようになりました.彼女はとても人当たりが良く,明るく,運動が上手で,トレーニングルームで毎日ダンスをしていて,美しい人でした.当時の私は(今もなんですが),超がつくほどの人見知りで,相当心を許した人でないとまともにしゃべることができない人だったんですが,彼女はそんな私にもほかの友人と同じように声を掛けてくれました.誰から見ても華やかな彼女と友達になれたことが,当時とても誇らしかったのをよく覚えています.高校を卒業した後も,なぜか何年に1回くらいのペースで会う機会があり,仲よくしてもらってました.Facebookでも友達申請をしてくれて,時々コメントをつけてもらったりして,そんな切れそうで切れず,ゆるいやり取りが高校卒業後10年近く続いてました.

広島での災害発生から数日後,広島市が公表した行方不明者リストが公表されました.何の気は無しに,ざっと見ていたのですが,そこに彼女と同じ名前を見つけました.背筋が凍るというのはまさにこのことでした.でもまだ,この時は信じられませんでした.あの明朗活発な人が亡くなるわけがないと.Aさんの名前は変わった名前ってわけでもないし,同姓同名の別人じゃないかと.仮に本人だとしても,きっとどこかの避難所に紛れている,または偶然家族旅行に行っていて難を逃れている,ひょっこり見つかって,「私あの時行方不明者リストに載ったんよー」と後々彼女の飲み会での鉄板ネタにでもなるんじゃないかと思っていました.そう信じていました.そのくらい,死のイメージからは真反対の人でした.

翌日,TVをつけると,行方不明の方々が一人一人紹介されていました.よく見慣れた顔写真が紹介されていました.それは間違いなくAさんでした.「友達曰く,運動神経が良く,頭も良く...」と紹介されていました.私のよく知っている運動神経も良く頭も良いAさんでした.インタビューの中で,彼氏の方が「災害の日からLINEが既読にならない」と言われていました.この時は,もう自分でもどう気持ちの処理をすればいいか,よくわかりませんでした.とにかく,「早く見つかってほしい」という思いだけでした.そして,行方不明者のプロフィールを物語めかして紹介するメディアにとてつもなく苛立ちました.

数日後,Aさんはお母さんと一緒にご遺体で見つかりました(お父さんはもう少し早く見つかりました).まだ見つからない人がいる中,早く見つかってよかったといわれる方もいらっしゃいますが,どうしても「よかった」という感情にはなれません.

私は広島の災害があった翌日,東北の陸前高田に向かっていました.朝一の新幹線に飛び乗ったので,朝のニュースも全く見ていませんでした.途中,友人のFacebookで広島で可部線が止まって大変という投稿を見つけ,TwitterでもTLに広島だの土砂災害だのというワードが飛び交い,そして広島の友人からLINEで家の目の前が泥だらけになったと写真付きのメールが送られてきて,なんかちょっと大変なことになってるらしいということに気づきました.とりあえず,母に大丈夫かとメールをしてみたところ,うちは大丈夫と連絡があったので,とりあえず安心し,その後広島の友人たちのFacebookでの呑気な日常の投稿など見ていると,ああなんだ,まぁ大変だったみたいだけど大したことはなかったんだなと軽くとらえてました.その後友人から「土砂の堆積が大変なのに人がおらん.掻き出すの手伝いに来てくれん?」とメールが来ました.「いやー...東京から行くの大変だしなぁ.東北の震災復興を俺は頑張るからそっちはそっちで頑張れよ.」と,そんな思いで災害直後の土日は完全に自分の世界から切り離し,思考停止のまま過ごしました.東北で震災関連の仕事を続ける中で,「俺は東北の仕事をしていて,被災地の人の気持ちがわかってるんだ,他の奴よりも被災地に寄り添っているんだ」という驕りと思い上がりがあったのだと思います.自分の地元で起こったことなのにもかかわらず,実感も当事者意識も十分に認識できないまま.
その後,消防団で毎日朝から晩まで働いているという友人の話と,ボランティアに行ってきた,現場は地獄絵図だった,という友達や両親の話を聞き,そしてAさんという自分の身近な人が亡くなったことで,ようやくこの災害の悲惨さを実感したように思います.自分の鈍感さと驕りを反省するとともに,何としても今広島に行かなければいけない,自分が行って何かできるわけでもないし,結局突き詰めてみれば自己満足のため,ということになるのかもしれないけれど,ここできちんと広島の災害を見て,向き合って,何か考えないと,ダメだと思いました.

Aさんが亡くなった次の日,次の週末は広島に行くことに決めました.色々調整し,土曜日は朝から移動し,昼一で上司の知り合いの建設会社さんに案内してもらい現地の状況を確認,日曜日は母の職場に紹介してもらい,終日,八木の災害現場でボランティアをすることにしました.

ボランティアで行った先は家屋の1階が軒並み土砂に覆われている地区でしたが,細い街路が多く重機が入れないため,各家から掻き出した土砂を詰めた土嚢をトラックが入れる広場までみんなでリレーして運ぶ作業を手伝いました.老若男女数百人は集まっていたと思います.ヘドロのにおいが充満するなか,泥だらけになりながら,炎天下,重い土嚢をみんなでリレーしました.ボランティアの中にはこの作業を毎日続けている方もいらっしゃいました.私が思考停止になっている間も,地域のために働いていた方々がいて,平日フルタイムで働いて週末2日ともボランティアをしている人がいて,高校生たちは部活を取りやめてみんなでボランティアに参加して,そして自衛隊や県内外の警察・消防の方々は昼夜現場で活動されていて,皆,本当に尊いと思いました.

いろいろ書きましたが,未だ,この災害を総括する時期にはないと思いますので,どうまとめていいか,言葉が出てきません.少なくとも,このたび私が現地で見聞きしたことと感じたことをきちんと私のコミュニティでも共有し,どういう形になるかわかりませんが,何か貢献できることがないか,模索していかねばならないと感じています.

 

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